尾瀬とはるかな山、平ヶ岳 2/関西の山の会会員募集「山があるクラブ・U」登山クラブ

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話題14-2  尾瀬とはるかな山、平ヶ岳 2 尾瀬から平ヶ岳(2,141m)、景鶴山(|,942m)行

 
平ヶ岳へ初めて訪れたときの記録を初めて披露します。この記録、住化愛媛登山部の「落葉松」12号に載せるつもりで1975年に作成し、編集にあたる後輩に送ったのですが、その時は結局作成はやめになりました。ところが送った原稿は行方不明となり、私の手元のその原稿やフロッピーデイスクもあやふやとなり、幻の原稿となってしまいました。
 かなり気張って書いたものでしたので、いろいろ探したりしましたが結局行方不明になってしまいました。。
 その後1984、5年になって「落葉松」12号(1974-1985)を作ることとなり、会誌は無事完成しましたがもちろんその中には入っていません。。
 記憶をたどって再度書こうかとも何度も思いましたが、とてもあの時の思いを再現はできないと諦めていました。
 ところが、この原稿のコピーがたまたまホームページに載せた今年6月の「尾瀬の山行記録」や会員のページの「尾瀬の思い出」などがきっかけになり、古くからの山の友人が持っていることが分かり、原稿をスキャナーで読み取り、OCRでテキスト化そして、多くの読み取りの誤りをその友人に修正していただくことができて、今回ここにその記録を上げることができたことを非常に嬉しいことと喜んでいます。
 38年も前の記録ですが、昔の山好きな若者?の記録として読んでいただければと思います。

1975年5月1日()〜5月3日(土)

 ビロードのようなスゲの原がゆるやかな起伏を描き、その中にやさしい曲線を描いた池塘が点在する山上の湿原。池塘には紺青の空と白い雲が映っている。さっと吹く風に草原に白い波ひとつが通りすぎる。そして音もなく水面に立つさざ波。そんな情景を想い起こしてはうっとりする私にとって、平ヶ岳はずっと以前からのあこがれの山だった。

 名前だけからいえば高校の地理で使っていた地図帳の関東の図の上隅に記されていたこの特異な山名はいつも気になっていた。しかし初めて登りたいと思ったのは何時だったかははっきりはしない。昭和38年夏の初めての尾瀬行きで菖蒲平から望んだ平ヶ岳は夏の濃い緑の山々の中ではるかに遠く、いく筋かの雪渓を残す峰であった。この時、いつかは登ろうと考えることはなかったような気がしている。
 その頃の山案内にはそのコースはおろか平ヶ岳の名など全くなかった。至仏山へのバリェーションルートとして利根川側から狩小屋沢を登るルートは紹介されていたが、それとは別にどこかで同じ利根川側から水長沢を遡行して平ヶ岳へ行けるとの記事を読んだが、その記憶もあいまいになっていた。
 その後、深田久弥の日本百名山などの著書からこの山の登頂史なども学んだが、そこにある北側から只見川を詰めるルートも国境線ルートも笹ヤブの大変な路ばかりであった。至仏山から笠ヶ岳を経て湯ノ小屋へ下った時、このあたりのネマガリダケのヤブの丈の高さ、密度、そしてその強靭さを知った身には非常に難しい山に思えた。
 昨年5月中旬の快晴の日、至仏山の山頂に立って平ヶ岳をはじめとする利根川源流の雪の山々を一望したとき、意外と緩やかな山並みが続いているのを見て、これなら行けると初めて確信した。
 そして春を待ちわびている私にとって全くタイミングよく「山と渓谷」の4月号に「上信会越国境の山々」が特集され、加藤勝義氏の兎岳一平ヶ岳一尾瀬の報告が掲載されているのを見て、嬉しくなった。この号の表紙はススヶ峰をバックにした尾瀬平ヶ岳スキー行の6人の格好よい男達のカラーグラビアで飾られていた。 かくして5月の連休、帰省をかねての平ヶ岳行きとなった。

5月1日(木)快晴
 前橋、そこは多くの詩人たちのふるさとである。特に萩原朔太郎は私の最も敬愛する詩人である。その朔太郎が「野に新しき停車場は建てられたり 便所の扉風にさらされ ペンキの匂い草いきれの中に強しや 烈々たる日かな ・・・・」と詠った新前橋駅で両毛線から上越線に乗り換える。朔太郎の詩のようにいつもこの駅は郊外の新開地のわびしさが付いてまわってさびしいのだがそれでも今は春、車窓の外には木々の若葉がまぶしく明るい気分につつまれている。
 すぐに群馬総社の駅、ここも朔太郎の著名な詩「大渡橋」に「ここに長き橋の架したるは かのさびしき惣社の村より 直として前橋の町に通ずるならん われここを渡りて荒寥たる情緒の過ぐるを知れり」と詠んだ地である。

 やがて人家は遠ざかって八木原辺になると一面の緑の桑畑が広がる。最も上州らしい風景となる。左手に幾つもの峰を連ねた榛名山が、そして右手には宏大な裾野を引いた赤城山がかまえている。鍋割山、荒山、地蔵岳、そして鈴ヶ岳等のピークを見ていると自然にそれらの向こうに静まっている美しいカルデラ湖の大沼、小沼が想い起こされる。
 採石場のある岩本駅を過ぎるとやがて尾瀬への玄関、沼田である。
 6月の水芭蕉の頃から8月の夏山のシーズンにかけては多くのハイカーとバスで混雑する駅前も拍子抜けするほどの静かさだった。ここで戸倉行きのバスに乗る。客は10人程でゆったりしていた。縞模様の雪を残す上州武尊山をバックに5月の節句の鯉のぼりと家紋の付いた白黒の吹き流しが泳ぐ片品川の北側の台地を登り、ヘアピンカーブの続く椎坂峠を越える。やっと木々の芽だしといった春先の感じで道沿いの桜は満開であった。鎌田を過ぎても春爛漫の桜街道は続いてバスはやがて終点の戸倉へ着いた。

 しかし戸倉には期待していたタクシーは無く、結局鎌田からタクシーを呼んでバスで一緒だった埼玉からの女性一人を交えた3人のパーティと同乗し笠科川川沿いを遡った。積雪は津奈木橋で1米弱であった。橋から少し上がった所で車止めがあり、車を降りる。除雪途中の林道を行くことわずかで純白の至仏山を仰ぐ鳩待峠に着いた。
 小屋も開いていて、登山者が休んでいる。昼食の後峠を下る。登山者やスキーのシュプールがふんだんに付いていて迷うことなく山ノ鼻へ。途中の斜面には雪洞がいくつか掘られ、シュラフなどが干されていたりした。
 山ノ鼻の小屋が見えてきたが、川上川が向こう岸へ渡るのを妨げている。仕方なく川に沿って下り、尾瀬ケ原から山ノ鼻へ向かう路の橋に出てこれを渡り、やっと山ノ鼻に着いた。山ノ鼻の手前でもっとルートを左手にとれば、まっすぐ山ノ鼻へ渡る橋に出られたのだが、川上川の下流のダケカンバの河原が右側に開けているのにつられて右に来てしまった。

 山ノ鼻の積雪は60センチから1米であった。東へは尾瀬ケ原がふところ深く広がり、その向こうに燧ケ岳が左右対称の姿を見せている。ここから猫又川の右岸を遡る。
 至仏山から大きく開いたムジナ沢を渡るあたりは雪も解けて湿原が露われていた。川が左へ寄ってきた所では右岸の斜面をトラバース気味に渡るなどして行くと、たった一人で降りてきた山ノ鼻の自然指導員に出会い、彼から二俣への路を教えてもらった。
 二俣の対岸に着くと、教えてもらったように直径40センチ程の倒木が川をまたいで自然の橋になっている。流れは雪解けで深く、速い。恐るおそる四つん這いになって倒木の橋を渡った。二俣には平地もあり、また斜面には木々の深く大きな根鉢もあってテント設営にも、雪洞を作るにも適している。ダケカンバの梢越しに見える至仏山が高い。

 今回は荷をなるべく減らそうということで雪洞を掘る積もりで来たが、実際一人分の雪洞を掘ることがいかに大変なことかをこの時思い知らされた。ピッケルで雪の壁を突き崩し、コッフェルで雪を削り出す作業は1時間に余り、ぐったり疲れてしまった。食欲も無くすほどだった。スコップや雪鋸があればずっと楽なのだが、ピッケルとコッフェルでは非効率な作業だった。入口にブロックを積み、ポンチョを垂らしてやっと完成した。
 マット代わりに腰のあたりに敷いた荒井さんから借りてきたアナグマの毛皮が暖かい。暖房のために壁に段を付けて置いたローソクは夜通し雪洞の中を照らしていたが、面白いことに熱気が上がる真上に細く深い孔が真っ直ぐできていた。
 夜半には満月に近い月が青白く雪面を照らし、至仏山も白く輝いていた。風も吹いてきて枝のこすれる音や、カサコソとした小動物の動き回る音がずっと聞こえていた。

     
  川上川上流    猫又川右俣、左俣分岐で雪洞を掘り泊まる

 5月2日(金)快晴 
 まだ暗い内に起床。ラーメンの朝食を摂る。

 予定通り右俣、左俣にはさまれた細い稜線を登る。朝の雪は堅くしまっていて、落ち込むこともなく、順調に登る。小ピークを越えるとやがて南北に走る窪みに出た。この窪みを少し行くと正面が雪の壁になっている。地図にもある大白沢山の南東面に大きく走る岩壁と左俣川ブルブル滝とを結ぶ断層の壁だろう。これを越えないことには大白沢山ジャンクションヘは行けそうにない。ピッケルを横に刺して這うようにして急斜面を登り切った。至仏山が鋭い三角形の峰を見せていた。

小さなオオシラビソなどの林の広かった雪原を登ると至仏山、平ヶ岳、景鶴山への主稜線の交わるジャンクションピークに着いた。初めて平ヶ岳の偉容が目の前に飛び込んでくる。林の中にテントが一張りあって、中では朝食の用意をしているらしい。

 平ヶ岳への稜線は靴の踏み跡とスキーのシュプールが幾つも付いていた。リュックを木陰にデポしてカメラとピッケルだけの軽装で平ヶ岳へ向かう。目の前の1918米のピークを越えて白沢山までは割合やせた尾根筋で、鞍部は雪庇が東側に大きくせり出している。白沢山の登りはさしたる苦労もない。白沢山からの下りは途中左の密集した林が稜線にせまり、稜線の雪庇の崩れかけのクレバスの中を抜ける所もあって緊張した。白沢山と平ヶ岳の中間部は幅広い尾根となっている。夏なら池塘をちりばめた湿原がひろがる美しい所に違いない。ゆっくりした登りがあり、そして最後の100米は思いのほか急な登りで、ここで先を行っていたスキーの3人を抜いて一息で待望の平ヶ岳の広い頂上に出た。

 頂上はどこまでもゆっくり登っているようでもあり、どこが最高地点なのか見当もつかない。高みを求めてさらに行くと上半分は青い空、下半分は真っ白な雪の原で遠くの山はもちろん手前の山も雪に隠れて、まるで南極の雪原に立っているような気分になる。雪原の北側には左から八海山(1,778)、そして越後三山の中ノ岳(2,085)と駒ヶ岳(2,003)が白い頭を並べていた。南側ではスズヶ峰(1,953)から西へ張り出した赤倉岳(1,959)が立派で至仏山は随分と遠くなってしまった。その右には笠ヶ岳(2,058)、武尊山(2,158)が続いている 至仏山のすぐ右のとんがりは赤城山の黒檜岳(1,828)に違いない。手前には今たどってきた白沢山が大きい。景鶴山から大白沢への連なりは黒々と針葉樹に覆われている。東南には尾瀬の主峰,燧ヶ岳(2,346)が独立峰よろしくそびえ立ち、その右には男体山(2,484)、日光白根山(2,578)、錫ヶ岳(2,388)が連なり、そして皇海山(2,144)がそのふたこぶの高まりで両毛国境を締めくくっている。それにしても周りは山また山である。 この山を中心として半径20キロ以内に人家は無い。

     
 二俣から大白沢山への登り 左は外田代、
右は至仏山
   大白沢山山頂付近から平ヶ岳を見る
     
 平ヶ岳山頂 背景は八海山、中岳、越後駒ヶ岳    平ヶ岳山頂から南を望む 中央は至仏山、
右手前は赤倉山

いつまでもいたい気持を残しながら帰路につく。後から登ってきたスキーヤーが下りではあっという間に私を追い越していった。本当にスキーは速いと思った。登りは多少時間がかかるが、下りには全くといっていいほど時間はいらない。いつかあのような技術を身につけて自由自在に山を走り回りたいと思った。白沢山の東斜面の大きな雪面にはクレバスが何本か走り、今にも雪崩そうな気配である。白沢山頂上まで戻るとさすがに疲れを感じる。5月の陽光はあくまでも強く雪面からの照り返しも激しい。とにかく暑い。体も顔も火照っている。どうも日射病らしい。ジャンクションピークに戻り、木陰で横になると実に気持ちいい。30分も休むと元気を回復した。

 また荷を背負って大白沢山の北を巻いて景鶴山へ向かった。左側の斜面の下には大白沢池と湿原があるはずだが、灰色の筋がついた雪原が見えるだけだった。スキーと靴跡の残るヤブの多い稜線を行くと大した高低も無く、景鶴山の西肩に着いた。途中右手にやはり立入り禁止域で、秘められた湿原ともいうべき外田代やマイナーピーク(1,825)を囲む湿原群がやはり雪原となって広がっていた。マイナーピークはここを調査した東大の久野教授の名をとって久野火山ともいわれている。なるほどこのピークの周りの湿原はきれいなカルデラを形作っている。

 西の肩からの景鶴山のピークはヌー岩といわれる黄色い大きな岩の塊である。そして南東に一気に落ち込んでいるのはケイヅル沢である。実に急で上から覗き込むだけでも恐ろしい。一度転倒したらそのまま谷底まで持って行かれそうだ。ここを登ってきた足跡はあったが、とてもここを下る気はしない。
 荷を肩に置いて頂上へ往復する。所々シャクナゲの幹が行く手をふさいでいたが北側を巻き頂上に着いた。尾瀬ケ原を真上から眺望する素晴らしい頂きである。うねうねと蛇行するヨッピ川とその拠水林が白い尾瀬ヶ原に芸術的なアクセントを付けていた。

     
景鶴山の西肩から燧ヶ岳と尾瀬ヶ原を望む
手前に景鶴沢が落ち込んでいる
 
   景鶴山西稜線と燧ヶ岳

 肩からは南に延びる支稜を下る。初めは傾斜もゆるかったが、やがて太いクロベなどの繁る急な斜面となり、注意深く下る。ここでズルッと滑落したが、身を返してピッケルを差込み滑落停止、一瞬にして身体は止まったが、心臓の動悸はしばらく高まったままだった。飽きるほどやってきた滑落停止の訓練が本当に生かされたと思った。稜線を下るのがもっとも楽だが左手の稜線は大きな岩と大木が連なって歩くことはできない。結局急な斜面をジグザグに下った。緊張した長い下りですっかり消耗してしまった。ケイヅル沢の扇状地についてほっとしたものの、ここから今日の泊まりの東電小屋は遠かった。 

 東電小屋に着いてみると人気もなく、入口の扉も閉じられていて中に入れない。裏に回るとオレンジのテントが張られていて、中に青年が二人いた。ひとりは長髪で初め女性かと思った。聞けば2キロ先の温泉小屋は営業している様子だった。まさかにもう一度雪洞を掘る気力もなく、そちらへ向かおうかと思ったが、彼らからテントに余裕があるから泊まりませんかと誘われたのは地獄で仏に会った気持ちだった。
 
彼らは三国川十字峡から中ノ岳へ登り一泊、次いで上会国境稜線をたどり、剱ヶ倉山で一泊、次いで平ヶ岳を経てジャンクションピークで一泊して景鶴山、与作山を通り、ここまで下ってきたという。立派なものだ。越後三山から平ヶ岳を経て尾瀬へのルートは私にとってもあこがれのルートであった。今朝ジャンクションピークで見たテントは彼らのものだった。こちらは食事の材料もさしたるものも無く、彼らからごちそうになった。まだ高専を出て企業に勤めてわずかの若々しい二人だった。東京の河本氏と栗山氏だった。

  5月3日(土)曇り
 朝から雲が低くたれこめた陰鬱な日だった。今日は尾瀬沼方面へ向かうという河本、栗山両氏に感謝の挨拶をして、山ノ鼻へと出発する。上田代では雪が腐ってズブズブと沈み、歩きにくかった。雪の表面が赤く染まった池塘があちこちで見られた。”赤しぼ”と呼ばれる春先の湿原でおこる赤い藻が繁殖する現象である。

 鳩待峠から少し下るとタクシーが待機していた。束京へ帰るという4人と一緒に沼田までそのタクシーで下る。 

 幸い天候にも恵まれ予定していたコースを100%やりとげて会心の山行きであった。雪の尾瀬、奥利根、平ヶ岳、景鶴山などこの時期ならでは山々の強い印象が残った。

 コースタイム

5月1日  足利 7:17 新前橋 8:11 8:28 沼田 9:10/9:40 戸倉 11:25/11:45
      津奈木 
12:20 鳩待峠 13:15 山ノ鼻 14:30/14:40 二俣16:00 (雪洞)

5月2日  起床 3:15 二俣 4:35 ジャンクション 7:05/7:50 平ヶ岳 9:50/10:50 
      ジャンクション 
12:30 13:00 景鶴山西肩 14:30 山頂 14:40/14:50 
      西肩
14:55 /15:00 景鶴沢16:30 東電小屋17:00(テント)

5月3日  起床 6:20 東電小屋 8:20 牛首 9:30/ 9:40 山ノ鼻 10: 15/ 10:35
      鳩待峠 11:35/ 12:25 峠下 14:40 沼田 14:00/ 14:16 新前橋14:44/14:59 
      足利 
15:39 

旅費
      足利一沼田往復 国鉄     440x2円=  880
      沼田一戸倉  バス
800+ 400円(荷)=1,200
         鎌田一津奈木 タクシー   2,900/4=  750
         鳩待峠一沼田 タクシー   8,070/5=1,600
      計                   4,430円  
      

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