話題1 深田百名山
深田久弥による「日本百名山」が出版されたのは1964年(昭和39年)7月です。私が大学4年の夏です。その頃深田久弥という名を知っていたかどうか思い出せません。ただ勝手に100の山を選んで「日本百名山」と名づけたのが、なにかすんなり受け入れられず、強く反発しました。そのため出版直後に書店で見ているのにずっと買い求めることはありませんでした。
文章は悪くはないものの、写真が実に素人そのものの駄作でした。撮影者が誰と書かれていないので執筆者本人のものかもしれません。折角の名山が実にみすぼらしい姿で撮られています。それより大分後、別の大きさの版や文庫本も出ましたが、写真はさすがに差し替えられていました。私が旧版の2版を古本屋で買ったのはそれから20数年後でした。
さすが文体の研究家としてやってきた深田氏らしく、簡潔で強くいいものです。特に後記がよく、選択の基準として自分が登っている山に限ったため、登り残していた北海道のニペソツ山他いくつかの山が外れたことを悔いています。ニペソツは北海道本島の中では珍しい尖峰であり、標高も高く、格調高い山です。この選の誤りは大きいと思います。同じく尖峰の芦別岳も選から洩れています。さすがに利尻山は真っ先に載っています。
また著者が東京在住とあって選が中部山岳と関東、新潟等に偏っています。特に西日本の人間はそう感じます。近畿は3山、四国もわずかに2山しかありません。
氏は小説家ですが、その小説の代表作「津軽の野づら」は前妻が書いたものをほぼ盗作したものだったとされいいところがありません。しかしヒマラヤ等の山岳記録の蒐集やまとめは評価されてよいものです。いつしか私も深田作品を多く読むようになり、一時会社の登山部の後輩から清水さんの文章は深田久弥によく似ているといわれ、喜ぶべきか、憂うべきか途惑ったこともありました。
私は百名山を登ろうなどと考えていませんでしたが、40歳過ぎた頃には気が付いてみると55山くらい既に登っていました。それなら完登してやろうではないかと思い、抜けていた山に向かうことも多くなりました。
最後は富士山と決めていました。夏や秋の富士山そのものはなんの面白みもないガレの山ですが、高さや形そして歴史から言って日本一の山です。少し変わったお遊びをということでやったのが海抜0mから山頂3776mへの登山です。1996年7月半ば大阪を朝立ち、新富士で新幹線を降り、タクシーで山部赤人の「田子の浦ゆ・・」で有名な田子の浦に行き、波に手を浸し、白く丸い小石を拾ってから歩き始めました。暑い日差しをこうもり傘で避けて、車の行き交う道を北に登って行きました。途中道は切れて十里木ゴルフ場に入ったり、住宅地に入ったりしました。
夕方はどこかで食事をと思っていましたが、そうした場所がなく夕飯抜きとなったのは大失敗でした。夕闇来る頃腰切塚から松や栂の林の中の須山登山路を登り、やがて眠くなり、御殿庭という森の中で仮眠しました。この仮眠後また登り始め、左上に煌々と明るい五合目が見えましたが、道はそれとは離れて行き、また明るい火が見えてきました。とにかく真っ直ぐ踏み跡をたどるものの一歩上がって半歩以上下がる急なガレ道が続くようになりました。結局宝永山の火口の西の縁のガレ石の斜面を歩いていたのです。少し空が明るくなる頃、ブルドーザーの道が見えてきて七合目の小屋に着きました。ここで2時間ほど仮眠して、丼ものを食べて頂上の浅間神社に着きました。ここまでが田子の浦から仮眠も含め24時間15分でした。こんな登り方をする人が年に10人くらいいるそうです。
この日会った登山者は15人くらいで、テレビで報道されるような賑わいはなぜなかったのか今も不思議です。
下りは砂走りを経て御殿場口に着きました。途中の黒い火山灰の広大の原は荒涼とした風景で、多くの映画にも使われた印象的なものです。時々自衛隊演習場からの砲撃音が轟いていました。2,3月頃富士の中腹からスキーで滑降したら素晴らしいと思いました。
この9月、栂池、白馬大池から白馬、天狗、不帰の嶮、唐松そして五竜山荘から遠見尾根と後立山を縦走したが、このとき会った気持ちいい若いご夫婦とその上司の人と小屋の自炊場で楽しく語りあいました。「この先どのような山に登ればいいですか」が問われ、このホームページにも記した私が間違いなくいい山といえる山など「約30山も登ればまずは十分ではありませんか」とメモ用紙に山名を筆記して渡したところとても喜んでくれました。日本のビッグな山は10から15年年くらいかけて30山をじっくり登ればいいと思います。
深田クラブという深田久弥信奉者集団が三百名山まで定めていますが、全くきりがないとしかいいようありません。これも230山くらいは登っているはずですがが、残る山々にはやはり少し魅力がなく、このまま大して進展はなさそうです。 2011.9.25